プロフィール
| 本名 | Sidney Poitier |
|---|---|
| 生年月日 | 1927年2月20日 |
| 出身地 | アメリカ・バハマ系 |
| カテゴリ | 俳優・監督 |
| デビュー | 1950年(映画「No Way Out」) |
1964年4月13日、第36回アカデミー賞授賞式の壇上で「野のユリ」のシドニー・ポワチエの名が呼ばれたとき、黒人男優が主演男優賞のトロフィーを持って降りてくる光景を、ハリウッドはまだ一度も観たことがなかった。ジョン・F・ケネディ暗殺の5ヶ月後、公民権法成立の3ヶ月前——時代の真ん中で行われたこの授賞は、彼個人の業績であると同時に、アメリカ社会が当時どこまで来ていてどこまで来ていなかったかを同時に記録するイベントになった。
ポワチエの仕事を一言で要約するなら「品位の戦略」になる。ハリウッドが黒人俳優に許してきた役柄の幅は、ステレオタイプの周辺から外に出にくかった。彼は自分が引き受ける役柄を、知性、礼節、職業的能力で武装させ続けた——それは無垢な選択ではなく、当時のアメリカ映画産業の中で「主役として観客の感情の中心に立つ黒人俳優」を初めて可能にするための、計算された戦略だった。
— 01マイアミとバハマからニューヨークへ
1927年2月20日、フロリダ州マイアミの病院で、トマト農家のバハマ移民の家庭に7週早産で生まれた。両親はバハマ・ナッソー近郊の小島キャット・アイランドの住民で、出産のためマイアミに渡っていた。生後すぐにバハマに戻り、ポワチエは10代までバハマで育った。アメリカ国籍は出生地主義により自動的に付与されていたが、彼自身の文化的アイデンティティはカリブ海の島の方に深く根ざしていた。
15歳でフロリダの兄宅に身を寄せ、16歳でニューヨーク・ハーレムに移住。皿洗い、ベルボーイ、軍隊(除隊後)と職を転々とした後、ハーレムの「アメリカン・ニグロ・シアター」のオーディションに応募する。最初はバハマ訛りの英語を理由に落とされたが、半年間ラジオを聴いて訛りを矯正し、再挑戦して合格した——本人が後年繰り返し語った逸話だ。
舞台俳優としてのキャリアを経て、1950年にジョセフ・L・マンキーウィッツ監督・ダリル・F・ザナック製作「No Way Out」で映画デビュー。当時のハリウッドが黒人俳優に許していた役柄の狭さの中で、彼は徐々に「主役級として観客の感情移入を引き受ける黒人俳優」というポジションを切り拓いていく。
— 021963年「野のユリ」と1967年の3連続
ポワチエの最初の大きな到達点は、1958年スタンリー・クレイマー監督「手錠のままの脱獄」。トニー・カーティスと手錠で繋がれて脱獄する黒人受刑者を演じ、第31回アカデミー主演男優賞にノミネートされた。黒人男優としてアカデミー主演男優賞ノミネートの最初期事例の一つだった。
転機は1963年、ラルフ・ネルソン監督「野のユリ」。ドイツから来た尼僧たちのために砂漠で礼拝堂を建てる流れ者の元軍人ホーマー・スミスを演じた本作で、ポワチエは黒人男優として初のアカデミー主演男優賞を獲得した(Sidney Poitier becomes first African American to win Best Actor Oscar — HISTORY)。
そして1967年、彼は「全米興収トップの黒人俳優」というそれまで存在しなかったポジションを、3本の連続主演ヒットで作り上げる。ジェームズ・クラヴェル監督「いつも心に太陽を」、スタンリー・クレイマー監督「招かれざる客」、ノーマン・ジュイソン監督「夜の大捜査線」——後者は第40回アカデミー作品賞を含む5部門を獲得した(In the Heat of the Night (film) — Wikipedia)。「招かれざる客」は当時、米国の一部の州でなお人種間結婚が違法とされていた時期に公開されており(Loving v. Virginia は1967年6月12日判決)、映画と現実の差分そのものが作品の主題になっていた。
観客の側から見える「ポワチエ的演技」
「夜の大捜査線」のフィラデルフィア警察刑事ヴァージル・ティッブズが、ミシシッピの白人富豪に頬を張られ、即座に張り返すあのワンショット——1967年当時の米国南部の劇場では、観客から悲鳴と拍手が同時に上がったと当時のレビューが伝えている。それまでのハリウッド映画で、黒人主人公が白人を物理的に打ち返す描写は事実上存在しなかった。ポワチエの演技を「品位の戦略」と呼ぶとき、その品位は単に礼儀正しさのことではない——殴られた瞬間に殴り返せる人間として観客の前に立ち続ける、ということだ。この一打のために、彼は「いつも心に太陽を」のロンドン高校教師、「招かれざる客」の医師、そして「野のユリ」の流れ者という、職業と階級の異なる役柄を平行して引き受け、観客に「黒人主人公の感情に巻き込まれる経験」を反復させていた。
— 03シドニー・ポワチエと黒人主演男優賞受賞者の系譜
1964年のポワチエ受賞から、次の黒人主演男優賞受賞までには38年の空白がある。2002年第74回でデンゼル・ワシントンが「トレーニング・デイ」で受賞するまで、主演男優賞は再び白人俳優の独占枠に戻っていた。同じ授賞式でポワチエがアカデミー名誉賞を受賞しており、二つの世代の象徴的なバトンタッチが成立した。
その後の20年で黒人主演男優賞受賞者は加速度的に増える。2005年ジェイミー・フォックス(「Ray/レイ」)、2007年フォレスト・ウィテカー(「ラストキング・オブ・スコットランド」)、2022年ウィル・スミス(「ドリームプラン」)——20年で4人の受賞者を出した数字は、ポワチエ後の38年間の停滞と比較したとき、ハリウッドの受け皿側が変化した速度を示している。
ポワチエが他の黒人主演男優賞受賞者と区別される指標は「初」という一点ではなく、彼が受賞した1964年時点でハリウッドが黒人俳優に提供できた役柄の幅が、後続世代と比較して極端に狭かったことにある。フォックスやウィテカーは実在の音楽家・独裁者という人物伝記の主役を引き受けて受賞、スミスは父親役という家族物の中心で受賞——いずれも21世紀ハリウッドが黒人俳優に多様な役柄を任せる前提で書かれた脚本である。一方ポワチエの1964年「野のユリ」は、人種そのものが脚本構造に縫い込まれていない数少ない大作で「主役」を引き受けたという、外形的な異質さを伴う受賞だった。
観客側から見える「最初の受賞者」が引き受けた重さ
「初」の受賞者は、自分の演技そのものよりも、業界の側が黒人主役を商業ベースで成立させる構造を引き受けることを強制される。ポワチエが1967年に「いつも心に太陽を」「招かれざる客」「夜の大捜査線」を3本連続で当てたのは、自分の受賞が一過性のものに終わらせない興行的証明として機能した。デンゼル以降の世代が個別作品の演技力で評価されるのに対し、ポワチエの仕事は1964年から1967年までの数年を一塊で「業界が黒人主演を許容する構造をこじ開けた事例」として読まれ続けている。
— 04監督業(一発大逆転・ブラック・ライダー)と晩年の評価
1970年代以降、ポワチエは監督業にも進出する。1972年の西部劇「ブラック・ライダー」(原題「Buck and the Preacher」、ハリー・ベラフォンテ共演、自らも主演)で監督デビューし、1975年「シドニー・ポワチエ/一発大逆転」(原題「Let’s Do It Again」、ビル・コスビー共演、監督・主演を兼任)、1980年「ストー!危機脱出」(リチャード・プライアー、ジーン・ワイルダー主演)など、黒人観客向けの商業大作を含む作品を連続して監督した。役者としても継続的に出演を続けたが、1970年代以降の主役は徐々に後進に譲っていった。
1974年、英国エリザベス女王より大英帝国勲章ナイト・コマンダー(KBE)を叙勲。バハマ国籍も保持していた彼は、1997年から2007年までバハマ駐日大使を務めるという、極めて稀有な経歴を辿る——俳優としての国際的著名度を、母国の外交に提供する形だった(Sidney Poitier — Wikipedia)。
2002年、第74回アカデミー賞でアカデミー名誉賞を受賞。同じ年、デンゼル・ワシントンが「トレーニング・デイ」で黒人男優として2人目の主演男優賞を獲得しており、授賞式での二人の交錯は「最初」と「次」の象徴的なバトンタッチとして記録された。2009年、バラク・オバマ大統領より大統領自由勲章を授与。
2022年1月6日、ロサンゼルスの自宅で逝去、94歳(Sidney Poitier dies at 94 — The Hollywood Reporter)。彼が1964年4月13日に切り拓いた道の延長線上に、2024年キリアン・マーフィーらアカデミー主演男優賞受賞者たちの位置がある。
「お前は誰の所有物でもない。お前自身の責任で立っているんだ」——父から受け継いだ言葉として、自伝『The Measure of a Man』(2000、原文は英語・日本語訳は当サイト)で繰り返し言及した一節。
— 05基本データ — 身長・妻・私生活
最後に、検索でよく問われる基本的なプロフィール情報を、出典の確認できる範囲で整理しておく。
- 本名:Sidney Poitier。1974年に大英帝国勲章ナイト・コマンダー(KBE)を叙勲している。
- 生年月日・出身:1927年2月20日、米フロリダ州マイアミ生まれ。バハマ系で、幼少期はバハマのキャット・アイランドで育った。
- 身長:IMDbの掲載値で約189cm(6フィート2.25インチ)。公式な計測値ではない。
- 妻:生涯に二度結婚している。最初の妻は元モデルのファニタ・ハーディで、1950年に結婚し1965年に離婚。二人目の妻は女優ジョアンナ・シムカスで、1976年に結婚し2022年にポワチエが逝去するまで連れ添った。
- 晩年:1997年から2007年までバハマ駐日大使を務め、俳優としての国際的著名度を母国の外交に提供した。2022年1月6日、94歳で逝去。