プロフィール
| 本名 | Marlon Brando Jr. |
|---|---|
| 生年月日 | 1924年4月3日 |
| 出身地 | アメリカ・ネブラスカ州 |
| カテゴリ | 俳優 |
| デビュー | 1950年(映画「男たち」) |
1947年12月3日、ブロードウェイのエセル・バリモア劇場。舞台版「欲望という名の電車」の初日、23歳のマーロン・ブランドが演じたスタンリー・コワルスキーに、客席は長いスタンディングオベーションで応えた。1951年の映画版のスタンリー、1954年「波止場」のテリー・マロイで、40年代までのハリウッドが規範とした「明瞭な発音と理性的な感情表現」は破壊された。低くつぶやく声、文を切らずに繋げる呼吸、肉感をそのまま画面に持ち込む立ち方。その革命は、天才の神秘に還元しなくても説明がつく。まず正すべき通説が一つある。ブランドにメソッドを教えたのはストラスバーグではない。
— 01メソッドの師は誰だったか — ストラスバーグ神話とステラ・アドラー
「メソッド演技=ストラスバーグのアクターズ・スタジオ」という等式は広く流通しているが、ブランドに関してはこれが誤りだ。1943年、19歳でニューヨークに移った彼は、ドイツ人演出家エルヴィン・ピスケーターが主宰するニュー・スクールのドラマ・ワークショップに入り、そこでステラ・アドラーに師事した(Stella Adler — Wikipedia)。
アドラーとストラスバーグは、スタニスラフスキー解釈をめぐって決裂していた。ストラスバーグは俳優自身の過去の感情を役に代入する「感情の記憶(感情代入)」を核としたのに対し、アドラーはこれを「病的だ」と退け、「役の置かれた状況を徹底的に研究し、想像力によって自然に共感が湧くまで」を説いた。アドラーは1934年にパリでスタニスラフスキー本人に直接師事した、グループ・シアターの中で唯一の米国人教師だった。ブランド自身、自伝『Songs My Mother Taught Me』(1994、共著ロバート・リンゼイ)で、成功後にストラスバーグが「自分がブランドに演技を教えた」と手柄を主張したことに対し、彼は何も教えていないと明確に否定している(Marlon Brando — Wikipedia)。彼の自然主義の土台は「感情の記憶」ではなく「想像と観察」にあった。
映画デビュー作「男たち」(1950、フレッド・ジンネマン監督)で、彼は脊髄損傷で車椅子生活を送る元兵士ケンを演じるため、撮影前に約4週間、退役軍人病院に入院患者として起居した。「観察と身体化」から役を立ち上げるアドラー流の方法が、最初の映画から実践されている(Wikipedia)。
— 02演技革命の実証 — 電車から波止場へ
舞台版「欲望という名の電車」の初日、彼は「劇的瞬間を待つ」古典演技を捨てていた。汗まみれの身体で終始、シャツを直す、缶ビールを慎重に開けるといった「些細な作業」に没頭し続けることで、予測不能な存在感を作った。共演のジェシカ・タンディやカール・マルデンは、彼の「たっぷりした間」の取り方にリハーサルで苛立ったと伝えられる(Collider)。この伝聞が正しければ、旧来の「型どおりの演技」と「内面的で予測不能な新しい演技」の衝突は、舞台裏でも起きていたことになる。1951年の映画版(エリア・カザン監督)は演技部門で3賞(主演女優賞、助演男優賞、助演女優賞)を独占したが、演技を変えた当人であるブランドだけが主演男優賞を逃し、旧ハリウッドの象徴ハンフリー・ボガートに敗れた(Wikipedia)。
それでも彼はここから「電車」(1951)、「ヴィヴァ・ザパタ」(1952)、「ジュリアス・シーザー」(1953)、「波止場」(1954)と4年連続で主演男優賞にノミネートされ続けた。アカデミー主演男優賞98年の歴史を4つの転換点で読む主演男優賞の系譜の中で、ブランドは「賞を政治的発言に転用した最初の前例」として位置づけられるが、その政治化の10年以上前に、彼はすでに「賞の側が追いつけない演技」を提示していた。
1954年「波止場」(カザン監督)のテリー・マロイで、ブランドはついにアカデミー主演男優賞を得た。タクシー内の名台詞「I coulda been a contender.(俺は一角の人間になれたんだ)」の「contender(挑戦者)」の一語は、ブランドにボクシングを教えた元ボクサー、ロジャー・ドナヒューの実話に由来し、撮影直前に脚本へ加えられた。カザンは後に「マーロンは、このシーンをどう演じるべきか私に示してくれた。私にはあれほど見事に演じるよう指示することは決してできなかった」と認めている(/Film)。有名な「手袋」の場面、エヴァ・マリー・セイントが落とした手袋をブランドが返さず自分の手にはめてみせる数秒も、リハーサル中の偶然からブランドが即興で生み、カザンが本番に採用したものだ(Sheila O’Malley)。台本の言葉ではなく、対象物(オブジェクト)と生活動作を通じて心理を作っている。ロジャー・イーバートは「波止場」を、ブランドとカザンが「アメリカ映画の演技を永遠に変えた」作品と評した(Open Culture)。
— 03ゴッドファーザーの造形と1973年の受賞拒否
1972年「ゴッドファーザー」(コッポラ監督)のヴィトー・コルレオーネで、ブランドはキャリアを再起動した。パラマウント上層部は当初、扱いにくさを理由に起用に反対していた。ブランドはスクリーンテストで、靴墨で髪を黒くし、ティッシュを頬に詰めて「ブルドッグのように見せたい」と造形。本番用には歯科医が製作した歯科用プランパー(下顎に装着し両頬を押し出す装具)を用いた。誰のテストか伏せたまま親会社首脳に映像を見せると、即座に「これは誰だ」と食いつき、起用が決まったという(Collider)。頬に装具を仕込んで顔の輪郭ごと役を作り替えるこの造形を、私は「マシニスト」で大幅減量したクリスチャン・ベールらノーラン作品の身体派の「肉体変形の役作り」と並べて見ている。ブランドが変えたのは顔の輪郭で、彼らが動かすのは体重そのものだが、役に合わせて身体を作り替える点で重なる。Colliderが伝えるところでは、冒頭でヴィトーが膝に抱く猫も脚本になく、コッポラが撮影所にいた猫を無言でブランドの手に置いたものだった。ブランドは何事もなく撫で続けた。猫の鳴き声が大きく、台詞は後処理で調整されている。
ブランドが本作で台詞をほぼ暗記せず、キューカードを多用したのは有名だが、これは怠慢ではなく方法論だった。彼の論理はこうだ。人は話すとき、次に言うことを事前に知らない。だから台詞を暗記して滑らかに言うと「嘘に聞こえる」。カードをカメラ外に置くことで、台本を見下ろす代わりに会話的で反応的な視線を保ち、彼が求めた自然主義を作った(/Film)。「奇行」として語られがちなこの手法は、「その場で自然に反応する」ための工夫で、アドラーの教えの延長にある。庭でヴィトーが孫と遊びながら倒れて死ぬ場面も、子役が怖がって演じられなかったのを、ブランドがオレンジの皮を歯にはめて怪物の顔を作り、即興で救った。ブランドが実生活で自分の孫とやっていた遊びだった(Collider)。
ブランドは第45回アカデミー賞(1973年3月27日)の授賞式を欠席した。代わりに壇上に立ったのは、彼の依頼を受けた先住民権利活動家サシーン・リトルフェザーである。ブランドが書いた声明は739語あったが、プロデューサーから「60秒以内に話さねば壇上から排除する」と通告され、彼女は原稿を読まず、映画やテレビにおける先住民の描かれ方と、当時進行中だったウーンデッド・ニー占拠事件を理由に受賞を辞退する、と短く述べた。会場は野次と喝采に割れた(Wikipedia)。事件から49年後の2022年8月、アカデミーはリトルフェザーが当時受けた扱いに対し正式に謝罪した(NPR)。なお「ジョン・ウェインが乱入しようとした」という有名な逸話について、映画史家ファラン・ネーメ(Farran Nehme)と伝記作家スコット・アイマン(Scott Eyman)は「根強い都市伝説」であり実際には起きていないとしている。彼女の出自についても、2022年10月の逝去後、ナバホ族の作家ジャクリーン・キーラーが実の姉妹2人に取材した内容をもとに議論が起きた(以上2点はSacheen Littlefeather — Wikipediaによる)。いずれも、ブランドが受賞拒否という手段を選んだことの評価とは別の論点である。
この演技の遺産は、同じ役で可視化される。ロバート・デ・ニーロは「ゴッドファーザー PART II」(1974)で若き日のヴィトーを演じるため4か月かけてシチリア語を習得し、助演男優賞を受賞した。ブランドとデ・ニーロは、同一のキャラクターでそれぞれオスカーを得た史上初の俳優ペアだとWikipediaは記録している。
— 04受容の弧 — 絶賛・凋落・復活・自己パロディ
ブランドのキャリアは、一本調子の「伝説」ではない。1950年代の絶賛、1960年代の凋落、1972年の復活、そして晩年の自己パロディまで、振幅が大きい。
1950年代の評価の高さは、後年の順位づけにも残っている。AFIの「100 Years…100 Stars」(1999)によれば、彼は1950年以前にデビューした男性スター部門の第4位に選ばれている。ボガート、グラント、スチュワートに次ぐ位置だ(Wikipedia)。この時期の代表作「波止場」は、いまもRotten Tomatoes99%とMetacritic91の高評価を保っている。
1960年代に入ると、評価は落ちる。1958年「サヨナラ」以降、1972年まで、興行ヒットもオスカー・ノミネートもない(Marlon Brando — Wikipedia)。「ミューティニー・オン・ザ・バウンティ」はスタジオを傾けかけ、批評家ポーリン・ケイルは当時のブランドを「痛々しく自らの評判を嘲笑する道化」と評した。彼は業界で「アンバンカブル(客を呼べない)」と見なされていた。
1972年、同じケイルが「ラストタンゴ・イン・パリ」(ベルトルッチ監督)について「ベルトルッチとブランドは芸術形式の顔を変えてしまった」と、映画史上最も有名な絶賛の一つを書いた(ポーリン・ケイル評、The New Yorker 1972年10月28日号。批評集『Reeling』1976年に再録)。次世代の俳優たちも彼を偶像として語った。ジャック・ニコルソンはRolling Stoneに寄せた追悼文で彼を「俳優たちの守護聖人」と呼び、その映画への影響を「史上最大」とし、「アーティストとして、私はブランドをピカソと同一視する」とまで書いた。「賞に追いつかれなかった俳優」が、批評と後続世代の双方から遅れて頂点として承認された局面である。
そこから弧は下降する。「地獄の黙示録」(1979)のカーツ大佐では、痩身を想定されていたのに大幅に太って現れ、コッポラは黒衣と顔のみの照明で「神話的存在」として撮る演出に切り替えた。台詞をほぼ暗記せず即興に依存し、報酬は1か月のロケで200万ドル+歩合で総額約900万ドルに達した(Far Out Magazine)。「スーパーマン」(1978)のジョー・エル役は約13日の撮影で総取得約1,900万ドルと報じられ、「短い出演×破格報酬」が後期の働き方の型になった(Variety)。そして「ドクター・モローの島」(1996)は、イーバートが追悼記事で「おそらく彼の最悪作」と評すほどの自己パロディに至った(Wikipedia)。演技を変えた男は、後年「出演すること自体が付加価値」の存在になった。
— 05代表作の観る順 — 版の選び方まで
配信状況は変動するので、視聴前に各サービスで確認したい。
入口は「欲望という名の電車」(1951)から「波止場」(1954)へ。ともにカザン監督で、荒々しいメソッド(電車)から制御されたメソッド(波止場)への進化を同一演出家の下で連続体験できる。「電車」は1993年の復元版で観たい。1951年公開版は検閲で約5分が削られ、スタンリーの性的緊張が弱められていた(Wikipedia)。
「波止場」で最初に注目すべきは、有名な「I coulda been a contender」ではなく、その直前の「It was you, Charley」の抑えた数秒だ(Criterion Close-Up)。ブランドは怒鳴らない。兄を前に声を落とし、恥じ入るように演じている。「叫ばないこと」にメソッドの核心が出る。
折り返しは「ゴッドファーザー」(1972)。歯科用プランパーによる造形とキューカードの話、そして受賞拒否の文脈を思い出しながら観ると、冒頭の猫の即興から意味が変わる。
「地獄の黙示録」(1979)は期待値の調整が要る。カーツ大佐は本編の最後の約15分にしか登場せず、影の中で台詞の多くを即興で語る。初見は劇場公開版(1979)かFinal Cut(2019)から入るのが安全だ。Redux(2001)はカーツを早く明るく見せすぎ、神秘を損なう(ScreenRant)。
「スーパーマン」(1978)は演技鑑賞というより、「後期ブランドの経済構造」を読む一作になる。13日の撮影で総取得約1,900万ドル。才能そのものが希少資源として値付けされた働き方が、ここに出ている。
「乱暴者」(1953)を「波止場」と「ゴッドファーザー」の間に挟むと、革ジャンと帽子の角度だけで「不機嫌な若者」のアイコンを発明する場面が見られる。町の女性に「何に反抗してるの?(What are you rebelling against, Johnny?)」と問われ、「そっちにあるもの全部さ(Whadda you got?)」と返す数秒は、後のジェームズ・ディーンやマックィーンに継承された記号の発祥点である(The Wild One — Wikiquote)。
メソッドを「たわ言」と断じるトム・ハーディの外面派と、メソッドを捨てたアンソニー・ホプキンスを続けて観ると、ブランドの位置がはっきりする。ブランドがメソッドを主流に持ち込んだ側なら、彼らはそれを拒む側になる。
— 06基本データ — 身長・家族・演技哲学
- 本名は Marlon Brando Jr.。1924年4月3日、ネブラスカ州オマハ生まれ。父も同名の Marlon Brando Sr.(販売員)で、「マーロン・ブランド・シニア」の検索はこの父を指すことが多い。
- 身長は約175cmとされることが多いが、本人や所属側による公式計測値は確認できない(参考値)。
- 家族については、複数回の結婚で多くの子をもうけた。2004年7月1日、肺線維症による呼吸不全のため逝去、80歳(Marlon Brando — Wikipedia)。
- 演技哲学は明快だった。ブランドは自らの仕事を「嘘で食っている。それが演技だ」と語り、演技は特別な才能ではなく、誰もが日常的に行う社会的行為の延長だと捉えていた(ドキュメンタリー「Listen to Me Marlon」2015)。この「日常の観察を演技の源泉とする」思想こそ、彼がアドラーから受け継いだものだった。