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実在モデル 看護師・看護教育者 · 日本・静岡県 — 2026.02.23 公開 / 2026.07.05 更新 — 執筆:
Masa Suzuki

鈴木雅(看護師)

1858年生まれ、1940年没。日本の近代看護の黎明期を代表する看護師の一人。歩兵少佐・鈴木良光と結婚して二児をもうけたが、夫との死別後に二人の子を抱えて上京した。桜井女学校付属看護婦養成所の第一期生となり、アグネス・ヴェッチに学んで日本最初期の正規教育を受けた看護師となる。英語力を買われてヴェッチの通訳兼助手を務め、のちに日本最初の派出看護婦会(慈善看護婦会)を創立、東京看護婦講習所で後進を養成した「組織者」だった。

#朝ドラ#明治#看護史#風薫る
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プロフィール

本名 鈴木雅(旧姓:加藤)
生年月日 1858年2月9日(安政4年12月26日)
出身地 日本・静岡県
カテゴリ 看護師・看護教育者
デビュー 1886年(桜井女学校看護婦養成所入学)

鈴木雅の名前を知っている現代日本人は、看護史を専攻した者か、明治期の女性史に深く関心を持つ者を除けば、ほとんどいない。だが2026年4月、NHK 朝ドラ「風、薫る」の放送開始とともに、彼女の名前は短期間ではあるが日本中の朝の食卓に届く——大家直美上坂樹里)のモデルとしてだ。

彼女はしばしば「大関和の同期の親友」として紹介される。だがそれは、鈴木雅という人物を受け身の脇役に押し込めてしまう見方だ。実像はむしろ逆で、彼女は日本で最初の派出看護婦会を設計・運営し、自前の養成所で後進を育てた「組織者」だった。大関がその器を受け継いで発展させた、という関係にある。本稿は、Wikipedia やブリタニカ、看護史資料が箇条書きで並べる年表を、鈴木雅一人の「意思決定の連鎖」として読み直す。

— 01鈴木雅とは — 桜井女学校第一期生と英語力

鈴木雅は1858年2月9日(安政4年12月26日)、静岡県の士族・加藤信盛(1834–1902)と母トヨの娘として生まれた。旧姓は加藤。武士の身分が制度として消える直前の世代であり、江戸末期の社会と明治の近代化を同時に体験する世代の女性として育った。1878年(明治11年)、雅は歩兵少佐・鈴木良光と結婚して鈴木姓となり、二児(一男一女)をもうけた。夫の良光は西南戦争(1877)で第九連隊第二大隊の大隊長を務めた軍人だったが、1883年(明治16年)、任地の仙台で病没する。雅は二人の子を抱えて上京し、看護の道へ進んだ(出典:鈴木雅 (看護師) - Wikipedia — trust: verified)。

転機は、開設されたばかりの桜井女学校付属看護婦養成所への、第一期生としての入学だった(養成所の開設は1886年〈明治19年〉、第一期生の入学は翌1887年初頭とする資料が複数ある)。第一期生はわずか6名で、大関和(おおぜき・ちか、1858–1932)、桜川里い、小池民、池田子尾、峯尾えいらが名を連ねている。鈴木と大関は「二人のW主演の親友」というより、「6人の第一世代のうちの2人」だった。この少人数コホートの中で、鈴木は特異な位置を占める。彼女は英語が堪能で、来日した看護教育者の通訳兼助手を務めたのだ。教師と生徒集団をつなぐ結節点——鈴木は単なる一学生ではなかった。なお、彼女がこの英語力をどこで身につけたかは資料により記述が分かれる。フェリス・セミナリー(現フェリス女学院)で英語とキリスト教教育を受けたとする資料がある一方、共立女学校を修了したとする事典もあり、在籍を裏づける一次史料はないとする立場もある。ここでは断定を避けておく。

養成所で鈴木らを指導したのは、スコットランド出身の看護教育者アグネス・ヴェッチ(Agnes Vetch)である。ナイチンゲール系の看護教育を受けたヴェッチは1887年(明治20年)に来日し、帝国大学医科大学附属第一医院(現・東大病院)と養成所の講師を兼任、本郷の一軒家で生徒たちと寄宿生活を共にした。ただし赴任は約1年強と短く、1888年(明治21年)11月に任期満了で帰国している。教育は全寮制で、掃除・洗濯・食事づくりといった生活面も重視され、生徒たちはナイチンゲール『看護覚え書』を自ら翻訳しながら学んだ——英語に長けた鈴木の力が、この翻訳作業で活きた可能性は高い。当時の日本には「トレインド・ナース(trained nurse)」という概念そのものが存在せず、看護は「賤業」とすら蔑まれていた。鈴木ら6名は、その概念を身をもって日本に持ち込んだ第一世代だった。

— 02日本最初の派出看護婦会 — 組織者としての鈴木雅

修了後、鈴木雅はまず帝国大学医科大学附属第一医院で内科の看病婦取締(内科看護婦長)に就いた。同じく内科には同期の桜川里いが、外科には大関和が看病婦取締として配置されている。鈴木は「組織者」になる前に、まず病棟の管理職を経験していたのだ。やがて、看護婦の待遇改善を訴えた大関が帝大を退職し、鈴木もその後を追うように1890年前後に退職する。

そして1891年(明治24年)、鈴木は本郷森川町に慈善看護婦会を創立した。これを複数の事典が「日本最初の派出看護婦会」と記録している(出典:ブリタニカ国際大百科事典(コトバンク) — trust: verified)。この会は、単なる看護師の寄せ集めではなく、二重構造を備えた「仕組み」として設計されていた。ひとつは、貧しい患者へ看護婦を無料で派遣し、看護という職業の存在を社会に知らしめる社会啓蒙の機能。もうひとつは、看護婦に雑用を強いることを禁じ、休息を確保するといった労働条件を守る職能保護の機能である。実務では、感染症対策として白衣を毎日交換してアイロンをかけ、患者の家庭で衛生指導を行った。もっとも「慈善」を掲げた無料派遣は経営上成り立たず、1893年(明治26年)には東京看護婦会へと改称している——理想と現実の折り合いをつける決断だった。

さらに1896年(明治29年)、鈴木は東京看護婦講習所を創立し、派出看護婦の養成に力を注いだ。この時期、派出看護婦会の乱立で無資格・低教育の看護婦が増える問題が起きており、鈴木は「自前で養成所を作り、質を担保する」という対応を選んだのである。講習所には給費生の枠を設け、女性の経済的自立の道を開いた。彼女が広げた派出看護婦の仕組みは制度に先行しており、東京府が全国に先駆けて「看護婦規則」を定めたのは1900年(明治33年)——鈴木の実践を後追いする形だった。鈴木の活動は看護婦会の枠にとどまらない。日本初の女性医師・荻野吟子らとともに大日本婦人衛生会を組織し、『婦人衛生雑誌』を刊行して一般女性向けの衛生知識の普及・啓蒙にも努めている。

— 03「組織者・鈴木/現場者・大関」— 二人の分担

鈴木雅と大関和の関係は、「親友」という言葉が想像させる対等な並走とは少し違う。二人の役割は、いくつかの軸で明確に分かれていた。第一に診療科——帝大第一医院では鈴木が内科、大関が外科の看病婦取締を担った。第二に継承関係——鈴木が創った東京看護婦会に、大関は1896年(明治29年)に講師として招かれ、明治34年(1901年)頃に会頭に就任、1900年前後に鈴木から経営を引き継いだ。そして1909年(明治42年)、大関はこれを大関看護婦会として独立させている(引き継ぎの年は資料により1900年・1901年と幅があるため「1900年前後」としておく)。鈴木が器を作り、大関が受け継いで発展させた、という構図だ。第三に思想——鈴木がプロフェッショナルとしての技術と組織を重視したのに対し、大関にはキリスト教的な献身の色合いが濃い。大関はこの間、高田(現・新潟県上越市)の知命堂病院で初代看護婦長を務めるなど、地方医療の現場も担っている(出典:知命堂病院 — trust: verified)。

興味深いのは、「組織を作った側」である鈴木のほうが、現場で名を馳せた大関よりも記録が残りにくいことだ。鈴木は東京看護婦会と講習所を大関に譲ったのち、沼津などで余生を過ごし、1940年(昭和15年)6月11日に82歳で没したが、その晩年や子孫についての詳しい記録は乏しく、複数の資料が「確実に追える公開資料が多いとは言えない」と明記している。仕組みを設計した人物が背景に退き、現場に立った人物が「明治のナイチンゲール」として記憶される——この記録の格差は、次章で触れる朝ドラの構図とも、奇妙に相似形をなしている。

— 04朝ドラ「風、薫る」大家直美のモデルとしての鈴木雅

2026年度前期の NHK 朝ドラ「風、薫る」は、田中ひかる著「明治のナイチンゲール 大関和物語」(中央公論新社、2023年)を原案とする。脚本は吉澤智子、主題歌は Mrs. GREEN APPLE「風と町」、26週・全130話の構成で2026年3月30日から放送開始された(出典:風、薫る - Wikipedia — trust: verified)。

主人公は二人——一ノ瀬りん(見上愛)と大家直美(上坂樹里)。物語上の人物造形は史実通りではないが、桜井女学校で出会い近代看護を学んだ世代という構造は、史実の大関和と鈴木雅の関係に大まかに重ねられている。一ノ瀬りんの役柄には大関和の現場での実践が、大家直美の役柄には鈴木雅の組織化・教育者としての側面が投影されている。ただしドラマは大家直美を、生後まもなく親に捨てられ教会で育った孤児として大きく翻案しており、士族の娘で陸軍少佐の寡婦だった鈴木雅の史実とは大きく異なる。また、ドラマで生徒を指導するスコットランド出身の看護教師マーガレット・バーンズは、史実のアグネス・ヴェッチを下敷きにしたドラマ独自の人物である(ドラマと史実の対応の詳細は「風、薫る」ガイドに譲る)。

朝ドラがたびたび実在の女性をモデルとしながら、その伝記的事実を超えてフィクションとして再構築するのは、放送形態の特性上、繰り返されてきたことだ。「風、薫る」もまた、鈴木雅と大関和の生涯を厳密に再現するドラマではない。だが、明治期の日本で職業を確立しようとした女性たちの集合的な経験を、現代の朝の視聴者に届ける試みとしては意義深い。鈴木雅という名前が、たとえ大家直美の背景としてであれ、半年間にわたって朝の食卓に届くこと——それ自体が、長らく男性中心に語られてきた明治の近代化史への小さな補正として機能しうる。

— 05基本データ — 出身・結婚・死因

検索で関心の高い項目を、史料で確認できる範囲で整理する。記録が乏しい項目は、その旨を明記する。

なお本稿の人物情報は、Wikipedia「鈴木雅 (看護師)」、ブリタニカ国際大百科事典のほか、看護史の基本文献である『日本近代看護の夜明け』(土曜会歴史部会編、医学書院、1973年。国立国会図書館サーチ)などを参照した。

— 主な出演作品FILMOGRAPHY

1886
桜井女学校付属看護婦養成所 第一期生入学
大関和ら6名の第一期生として入学
教育
1888
桜井女学校看護婦養成所修了
アグネス・ヴェッチに学び日本最初期の正規教育を修了
教育
1891
慈善看護婦会 創立(日本最初の派出看護婦会)
無料派出と看護婦の労働条件確保を両立する組織を設計
組織
1896
東京看護婦講習所 創立
給費生枠を設け派出看護婦を養成
教育

— 主な受賞歴AWARDS

1888
日本最初期の Trained Nurses 大関和ら第一期生と共に近代看護教育を修了

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初出公開: 2026.02.23 / 最終更新: 2026.07.05 記事の作りかたについて →