NHK 連続テレビ小説「風、薫る」は、2026年3月30日(月)から放送された第114作目の朝ドラである。半年×全130回(予定)の構成で、脚本は吉澤智子、原案はジャーナリスト田中ひかるのノンフィクション『明治のナイチンゲール 大関和物語』(中央公論新社、2023年)。血縁関係のないダブルヒロインは連続テレビ小説として初めてで、「だんだん」(2008年度後期)以来17年ぶりのダブルヒロイン作品でもある。(出典:風、薫る - Wikipedia)
私はこのドラマを、登場人物名と設定をいったん史実に「戻して」観ている。ドラマの一ノ瀬りん、大家直美、梅岡女学校、帝都医科大学は、いずれも実在の人物と機関の改名である。ドラマが史実のどこを引き継ぎ、どこを大胆に書き換えたのかを追うと、明治看護史とフィクションの設計思想の両方が見えてくる。
— 01誰が誰のモデルか — 相関を翻案機能で読む
一ノ瀬りん(見上愛)のモデルは大関和、大家直美(上坂樹里)のモデルは鈴木雅である。Wikipedia「風、薫る」の本文が「一ノ瀬りんのモチーフは大関和」「大家直美のモチーフは鈴木雅」と明記し、JBpressの記事も「上坂樹里が演じる大家直美は鈴木雅をモチーフ」としている。
相関表は、史実の誰の翻案かと、物語上どんな機能を負っているかの二つの軸で並べた。俳優の全出演歴は各人物のプロフィール記事に譲る。
| 役名(俳優) | 史実のモデル | 翻案と物語上の機能 |
|---|---|---|
| 一ノ瀬りん(見上愛) | 大関和 | 現場と地方医療の系譜。史実の令嬢という出自を、ドラマも元家老の家の長女として概ね保持(後述) |
| 大家直美(上坂樹里) | 鈴木雅 | 組織化と教育の系譜。史実は英語堪能で通訳も務めた寡婦だが、ドラマは孤児設定に反転(後述) |
| マーガレット・バーンズ(エマ・ハワード) | アグネス・ヴェッチ | スコットランド出身の看護教師。史実の出身を引き継ぎつつ別名のフィクション人物に(後述) |
| 松井エイ(玄理) | ―(機能を独立させた造形) | 舎監兼通訳。史実では通訳は鈴木雅本人が担った。通訳機能を別キャラに切り出した翻案 |
| 大山捨松(多部未華子) | 大山捨松(実名) | 別系統の看護学校(有志共立)を資金面で成立させた実在人物。もう一つの看護黎明期への窓(後述) |
放送枠は月曜〜金曜の朝8:00〜8:15(NHK 総合ほか)、初回視聴率は世帯14.9%(関東地区)、個人8.3%だった。(出典:風、薫る - Wikipedia)
Wikipedia「風、薫る」によれば、主題歌は Mrs. GREEN APPLE「風と町」。
— 02史実の二人 — 武家の令嬢と、夫を看取れなかった寡婦
ドラマは二人を「孤児として育った者」と「その相棒」というバディの均質な出発点に置く。だが史実の大関和と鈴木雅の入職動機は、まったく異なる。
大関和(一ノ瀬りんのモデル) — 離婚から自活へ
大関和は1858年、下野国黒羽藩の家老、大関弾右衛門の次女として生まれた。「栃木の士族」という一般的な紹介よりも格が高く、上級武士の令嬢である。1876年(18歳)に結婚するが、夫が妾宅通いをやめず、1880年(22歳)に離婚した。女性側から離婚を切り出すことが異例だった明治初期の話である。(女子学院・大関ちか特設サイト) 父の名は大関弾右衛門増虎、母は烏山藩士の娘、哲である。(大田原市観光協会「風光るまち大田原」) ドラマがりんに引き継いだのは「元家老の家の長女」という出自までで、史実の側でその出自が最も重く効いてくるのは、離婚後に自活を迫られてからである。
1881年に上京、英語塾で一夫一婦制の思想に感銘を受けたことがきっかけでキリスト教に触れ、植村正久が牧する下谷一致教会に通う。1886年に植村から看護婦養成所への入学を勧められた際、当初は「いかにおちぶれたと言っても看護婦とは情けない」と拒んだと女子学院の大関ちか特設サイトは伝える。武家の令嬢が、当時「賤業」とされた看護を志すまでの心理的な段差の大きさが、この一言に凝縮されている。上京が明治14年(1881年)であること、養成所への入学が牧師の植村正久の勧めによるものだったことは、栃木県観光物産協会の紹介にも同様に記されている。(とちぎ旅ネット) ドラマが直美に与えた孤児という出発点は、この「身分が高いほど看護が遠い」という明治初期の力学を、あらかじめ取り払った設計だとも読める。
養成所修了後、帝国大学医科大学第一医院で外科看病婦取締に就任。感情が激しく献身的で、上長に「泣キチン蛙(なきちんかえる)ではないか」とたしなめられるほどよく泣いた、というエピソードが残る。原案者の田中ひかるは、この気質を伝記調査のなかで発見したと語っている。(女子学院・大関ちか特設サイト) この職にあった1890年(明治23年)、大関は看護婦の増員と交番制による休息の確保を求める建議書を、外科の責任者だった佐藤三吉教授に提出している。医局を通さず教授へ直接出したことに医師側から苦言が出て、大関は病院を離れることになった、とNHK財団のステラnetは伝える。(ステラnet・後編) 節05で扱う「看護の職域はどこまでか」という論争を、私はこの史実の摩擦の延長線上にあるものとして読んでいる。
鈴木雅(大家直美のモデル) — 夫の死の悔い
一方の鈴木雅は1857年、静岡県士族の加藤信盛の長女として生まれた。横浜の共立女学校(現在の横浜共立学園)で英語を習得した。1878年頃、陸軍歩兵少佐の鈴木良光と結婚するが、良光は1883年、仙台の陸軍病院で病死する。26歳で寡婦となった雅は「自分が充分な看護ができなかったことを深く悔やんだ」とされ、それが看護の道に進む動機になった。1887年1月、桜井女学校付属看護婦養成所に入学する。(JBpress・大家直美のモデル鈴木雅)
鈴木雅個人の生い立ちや結婚、基本データは、別稿鈴木雅(看護師)で詳しく扱う。
現場の大関、組織化の鈴木
二人はやがて日本近代看護の二つの軸を担う。史実の役割分担は「大関=現場の実践/鈴木=組織化・教育」に整理できる。
鈴木雅は1891年、東京本郷に慈善看護婦会(のちの東京看護婦会)を創設し、1896年には東京看護婦講習所を開いて、在宅訪問看護にあたる派出看護婦事業を制度化した。(大関ちか特設サイト) (鈴木雅(看護師) - Wikipedia) 同期のバディとして並走するドラマの時間割に対し、史実の鈴木が自分の組織を持つのは、養成所に入った1887年から4年後のことである。
大関和は1891年、33歳で新潟県高田の知命堂病院(1891年開院、新潟県上越市西城町3)の初代看護婦長に就任する。この就任は偶然の再会が生んだものだった。第一医院時代に実習で教えを受けた瀬尾原始が知命堂病院の院長となっており、高田に赴任していた大関を看護婦長に請うたのである。大関は高田に近代的な看護を伝え、産婆看護婦養成所の講師も兼ねて多くの看護師を育てた。1896年、恩師の看護のため高田を離れる。(上越タウンジャーナル) (大関ちか特設サイト) 上越市の紹介によれば、高田を離れたのは明治29年3月、産婆看護婦養成所の第1回生を送り出した後のことで、看護に向かった恩師は桜井女学校時代のツルーである。(上越市) この1891年から1896年までの5年、大関は高田にいる。同じ年月に鈴木は東京で会を興していた。
そして二人のキャリアが実際に接続するのは、養成所時代ではなく中年期である。大関は1896年に東京看護婦会付属講習所の講師となり、1901年には鈴木が東京看護婦会の会頭職を大関に譲る形で経営を託した。(大関ちか特設サイト) 大関が東京看護婦会の教師となったこと、のちに鈴木の後任として会頭に就いたことは、大関和のWikipedia項目にも記載がある。「別々に走ったキャリアが後年つながる」という史実の時間構造は、ドラマの「同期並走」と対照をなす。
— 03明治看護黎明期の三養成所 — 梅岡=桜井は「日本初」ではない
ドラマの梅岡女学校付属看護婦養成所のモデルは、桜井女学校付属看護婦養成所である。桜井女学校は東京府麹町区中六番町(現在の千代田区四番町)に開校したプロテスタント系の女子校で、女子学院(後身校)の源流の一つにあたる。(桜井女学校 - Wikipedia) 二人が学んだのはこの学校の付属養成所だが、これは日本で最初の看護婦養成所ではない。明治10年代後半から20年にかけて、外国人教師を招いた養成所が相次いで並立していた。
以下に、三校の設立年、母体、招いた外国人教師の系譜を並べる。
| 養成所 | 設立 | 母体と主導者 | 外国人教師とその系譜 |
|---|---|---|---|
| 有志共立東京病院看護婦教育所 | 1885〜86年 | 高木兼寛。設立資金は大山捨松の鹿鳴館慈善バザー(1884年、約1万6000円)が源 | 米国人宣教師の看護師を招聘 |
| 京都看病婦学校 | 1886年 | 新島襄と同志社/米国人宣教師J・C・ベリー | リンダ・リチャーズ(1841-1930、米国最初の正規看護師。ナイチンゲールに師事し訪問看護の指導も) |
| 桜井女学校付属看護婦養成所(=ドラマ「梅岡」) | 1886年 | 桜井女学校/校長の矢嶋楫子ら | アグネス・ヴェッチ(スコットランド出身、1887年着任) |
(京都看病婦学校 - Wikipedia) (大山捨松 - Wikipedia)
なおどの校を厳密な「日本初」とするかは資料により表記が揺れる(京都看病婦学校のWikipediaは同校を「日本で二番目」の看護婦学校と位置づけている)。いずれにせよ、桜井=梅岡は唯一の草分けではない。ナイチンゲール方式を持ち込んだ外国人教師が、複数の都市でほぼ同時に教壇に立っていた。
アグネス・ヴェッチ — ナイチンゲール直系、100歳の生涯
バーンズ先生のモデル、アグネス・ヴェッチは1842年にスコットランドのエディンバラで生まれ、1942年に同地で没した(100歳)。1874年、ナイチンゲール看護学校の卒業生が創設したエディンバラ王立救貧院病院看護学校に一期生として入学しており、ドラマがバーンズに与えたスコットランド出身でナイチンゲール直系という設定は、この経歴に裏づけられている。1887年9月に来日し、翌10月、帝国大学医科大学第一医院の看護教師に着任。桜井女学校の依託生6名を含む計28名を養成し、1888年11月に離日した(第一期生の卒業は同年10月26日)。(アグネス・ヴェッチ - Wikipedia)
大山捨松 — 別系統への窓
キャストのなかで、多部未華子が演じる大山捨松は実名のまま登場する。捨松はドラマの舞台である桜井=梅岡系とは別系統の、有志共立東京病院看護婦教育所を金銭面で成立させた当人である。1884年6月に鹿鳴館で慈善バザーを主導し、3日間で予想を上回る収益をあげ、その全額(約1万6000円)を共立病院に寄付した。ヴァッサー大学卒業(1882年)後にニューヘイブン病院で実地看護に従事して看護婦資格を取得しており、1887年には日本赤十字篤志婦人会の発起人にもなっている。私は捨松の登場回を、看護黎明期のもう一つの系譜に目を向けるきっかけとして観ている。(大山捨松 - Wikipedia)
— 04翻案の意思決定テーブル — ドラマの選択 vs 史実
ここまでの史実を踏まえると、「風、薫る」がどこで史実を書き換えたのかを、論点ごとに一対一で並べられる。
| 論点 | ドラマの選択 | 史実 | 翻案の読み |
|---|---|---|---|
| 二人の生い立ち | 直美=孤児として教会で育つ/りん=元家老の家の長女/同期のバディとして並走 | 大関(→りん)=黒羽藩家老の令嬢で離婚を経て自活/鈴木(→直美)=陸軍少佐の妻で夫の死を看取れなかった寡婦。動機は全く別 | 令嬢だった鈴木を孤児に反転させる一方、令嬢の大関はりんに引き継ぎ、二人を同期のバディに揃えた |
| 通訳役 | 舎監兼通訳の松井エイ(玄理)という独立キャラが担う | ヴェッチの授業の通訳は英語堪能な鈴木雅本人が務めた | 大家直美(鈴木)本人が持っていた通訳機能を、別キャラに切り出した |
| 看護教師 | マーガレット・バーンズ(別名のフィクション人物) | アグネス・ヴェッチ | 名を変えつつ、スコットランド出身でナイチンゲール直系という核は保持した |
| 二人の関係の時間軸 | 養成所時代から同期で並走 | 別々のキャリア(鈴木=東京の組織化1891-/大関=高田の現場1891-96)が1896年と1901年に接続 | 中年期にようやく交わる史実を、青春期からのW主演並走に前倒しした |
史実の鈴木雅は静岡県士族の娘で陸軍少佐の寡婦だったが、ドラマの大家直美は孤児として教会で育つ。令嬢だった大関和に相当する一ノ瀬りんは、元家老の家の長女のまま描かれる。
学校閉校の理由も書き換えられている
ドラマ後半で描かれる養成所の閉所も、史実とは理由が異なる。史実の桜井女学校養成所は併設病院を持たず、第一期生はヴェッチのツテで帝大第一医院で実習していた。実習先を安定して確保できなかったことが、養成所が短命に終わった背景にあったとされる。一方ドラマは「帝都医科大学が独自の看護婦育成方針に転換して実習受け入れを拒否する」という設定に組み替えている。(あさどらツギ・梅岡)(ドラマ側の設定)
「友情」は史料には無い — 原案者の証言
これらの翻案が「演出意図の推測」にとどまらないことは、原案者の田中ひかる自身の証言で裏づけられる。田中は当初「大関和一人の伝記」として企画したが、「鈴木雅がどんどん存在感を増してきて、気づいたら和と雅のバディ物になっていた」と語っている。史料の上では「2人が助け合っていたとか、こんな会話をしていたという記録はまったくない」とも述べている。(PRESIDENT・田中ひかる)
— 05なぜ評価が割れるのか — 数字と論争で読む受容
「風、薫る」の受け止められ方は一方向ではない。視聴率は序盤の低迷から中盤の回復まで振れ、作品評も、質を高く評価する記事と、看護の描き方に向かう視聴者の批判とに分かれた。
企画の起点と視聴率の推移
企画の起点はコロナ禍にある。制作統括の松園武大チーフプロデューサーは、パンデミック下で患者に寄り添う看護師の姿に感銘を受け、「疫病の時代」とも呼ばれる明治の二人のナースのパイオニアに関心を持ったことがこの企画の始まりだと述べている。(Diamond・松園CP)
序盤の視聴率は低迷した。初回は世帯14.9%、個人8.3%と前作を下回り、歴代でもワースト級だった。JBpressは序盤苦戦の一因を、モデルの大関と鈴木が放送前にほとんど知られておらず「2人に関する発行済み書籍はわずか3冊しかなかった」ことに求めている。だが中盤で数字はV字回復し、第48回(6月3日)には個人9.4%、世帯16.9%を記録して前作「ばけばけ」の最高値(個人9.2%、世帯16.5%)を上回った。JBpressは「人の生死と看護とは何かを真正面から描き続けている」と評価し、質の面では「『虎に翼』(2024年度前期)から後の朝ドラの中で一番」とまで述べている。(JBpress 95271)
W主演という構造リスク
血縁なしW主演という構造は、興行面では過去に苦戦の歴史がある。JBpressは先行するWヒロイン作として『青春家族』『京、ふたり』『おんなは度胸』『ふたりっ子』『だんだん』の5作を挙げ、このうち「『ふたりっ子』以外はヒット作とは言い難い」と分析している。理由として「朝の忙しい時間帯に主人公の目線が2つになると複雑になる上に感情移入もしにくくなる」点を指摘する。「風、薫る」はさらに、実姉妹でも年齢継承のリレー型でもなく、血縁のない同世代の二人が同じ期間を歩む初の設計をとる。(JBpress 94873)
看護の職域はどこまでかという論争
中盤の回で、患者の「家に帰りたい」という願いを、りんが医師の許可を得ずに独断で病院から連れ出したエピソードに対し、視聴者から「それは看護の仕事なのか」という趣旨の批判が上がったと報じられた。(婦人公論)
節02で述べた帝大第一医院時代の建議(看護婦の増員と交番制を求めた一件)は、労働条件の要求であると同時に、看護の側から職域を主張する行為でもあった。医学だけでは担いきれない領域を看護に見いだすというナイチンゲールの考え方を、大関はここで実務に移していたことになる。(ステラnet・後編) ドラマの「独断で患者を連れ出す看護婦」への現代の視聴者の反応は、看護の職業的自律がどこまで許されるのかという、大関の時代からの問いを現代に反射させている。
観る手引き
「風、薫る」を観るときは、登場人物名を史実(りん=大関、直美=鈴木)に戻し、翻案の意思決定テーブルを手元に各週の描写を確認する。養成所の描写では、当時の修了カリキュラムが「看病の要旨」「薬餌用法」「包帯術」「消毒法」など9項目からなり、全寮制で掃除や洗濯、料理まで仕込むナイチンゲール方式の生活訓練だったことを思い出したい。抗生物質のない時代に、衛生の知識に基づく術後管理で患者の予後を改善したことが、当時の看護の付加価値だった。(ERCA コラム 202602_1)
そして史実の大関和が晩年、日本赤十字社のナイチンゲール記章授与の申し出を「天国の宝を失う」として辞退したこと、著作『派出看護婦心得』(1899年)と『実地看護法』(1908年)を残し、1909年に大関看護婦会を開いたことまで追うと、ドラマが描く「始まりの物語」の、その後の長い実践が見えてくる。知命堂病院は現在も新潟県上越市に存続しており、明治の看護がどこに根を張ったのかを、地図の上でたどることもできる。(女子学院・大関ちか特設サイト)